2020.06.248人の連載
8人の“10年前のタイと私”
目次
1. 鈴木ひろみさん 2. サトミさん 3. ともみさん 4. 葛城杏子さん 5. ウィッタモン・ニワッティチャイさん 6. オプシューイさん 7. 古川節子さん 8. 池尾優さん変わっていくタイ、変わらぬタイ
そして10年前の2010年タイといえば反政府デモ、暗黒の土曜日、武力弾圧、非常事態宣言と微笑みの国が暗黒化した年だった。
そして微笑みの国は暗闇を乗り越え発展を続けている。
私は10年経った今もタイとご縁が繋がり、もう第二の故郷のようだ。
変わっていくタイ、変わらぬタイ、これからも見続けていきたいと思う。
花市場の蘭の花
旅の愉しみ方は人それぞれだと学ぶ
10年前の旅はチェンマイだった。親友とルアンパバーンで集合、タイ国境行きの高速ボートは途中で何度も故障して9時間超え。
ギリの時間で入国し、歩いて宿を決め、日焼けで身体はヒリヒリ、送別会に飛び入り参加しコムローイを上げ、翌日チェンマイ行きのバスに乗った。
親友は疲れた顔で言い放った。
「もう一緒に旅はしない!」私は最高にたのしんでいたので驚いた。
その後何度も誘われて一緒に旅してるけど、なんとなーくトラウマ。
後に働くことになったバーンロムサイ
2010年といえば赤シャツデモ
2010年は私がタイに来て3年が経つ頃で、タイのデザイナーズブランドで休みなくがむしゃらに働いていたので、自分に関しては逆にあまり記憶 がない。覚えているのは赤シャツデモ隊に占拠された街の情景、大手デパートが1か月以上閉店を余儀なくされた上、最期にはZENやサイアムスクエアが放火されるという悲しい出来事。
その後10年でいくつかの大波をなんとか乗り越えてきたバンコクと共に私も少しは成長したかな。
デモ隊突入時。自分で撮った写真です
気がつけば随分大きくなっていた
チェンマイに引越し、息子を出産したのがちょうど10年前。当時住んでいた部屋からはドイ・ステープがきれいに見えた。
しかし周辺の開発が進み、ビルのシルエットで所々が切り取られていった。
デパートやモールが増え、この街の人口に対して多過ぎるほどになったカフェは、どこもいいエスプレッソマシーンを使っている。
「そのままでいて」と願った赤子はいつの間にかひとりでカレーを作れるようになった。
歩みを止めず成長する姿は頼もしく、少しさみしい。
息子作のカレー。具のゴロゴロ感が◎
朝の過ごし方が変わってしまいました
今はPM 2.5のために窓を開けることもできません。
明け方に新鮮な空気を深呼吸するような生活の豊かさも失われてしまいました。
これからは、薄い生地のカーテンをつける家は少なくなるでしょうね。
窓ガラス越しに外を見て、急いで服を着て、渋滞の中、仕事に出掛けるようになるでしょう。
こんなカーテンは見かけなくなりそうです
みんなに育てられた
当時、地方暮らしをしていた私。タイ語はほとんど喋れなかったものの、なんとか生活が成り立っていて、それはきっと周りのタイ人のおかげだったと思う。
いつの間にか私を覚え、お節介なほど世話を焼いてくれた。
親戚が一気に増えたそんな毎日だった。
最初は独特の距離感が嫌で鬱陶しく思っていたけど、今よりもちょっとばかり距離が近くて、遠慮がなかったあの感じが懐かしくて、思い出すと笑ってしま う懐かしい日々ばかり。
近所のトゥクトゥクのおっちゃん(専属)
今に受け継がれるもの
10年前のチェンマイ、暑季の煙害はすでに始まっていた。街は郊外へと広がり、車も増えた。
私自身、住居を郊外に移した。
その頃、ピン川沿いに残る築百年の歴史的建物が取り壊されると知り、最後の記念にとチェンマイ の古い写真展を同建物にて開催。
その後、建物は保存されることになり、毎年寒季にはクラフトやコーヒーのイベントが開催され、若者が集う場所と なった。
古いものの価値を認め、魅力的に活かす流れがあるのは嬉しい。
2007年撮影。今も修復、保存されている
その日暮らしがキラキラして見えた頃
20代にタイで出会った仲間たちは、それを身を以て示してくれた。
当時周りは、たとえ経験や資金がなくても、やりたいことのためなら突き進む爆発力のある人ばかりで。
独学でDJになる子、初めて個展を開く子、自分の店を立ち上げる子。
自分の道を行っているから、〝宵越しの金は持たぬ〟姿勢さえも潔く見えたっけ。
保守的な京都の街に染まる自分に嫌気がさしたら、当時を思い出すようにしてる。
呆れるほど飲み会の写真ばかり